ミャンマーの歴史

9世紀なかば: ビルマ族、エーヤワディ川東岸のパガンの地に建都。
1044: パガン王朝のアノーヤター王により、初の統一王朝が誕生。
1057: アノーヤター王、モン族の都タトンを攻略。上座部仏教受容。以後、仏塔や仏閣を次々と建立したものが、現在「パガン万塔」と呼ばれ、世界三大仏教遺跡の一つとしてユネスコ世界文化遺産に指定。
1287: モンゴル軍の侵攻により、パガン王朝滅亡。
18世紀なかば: アラウンパヤー王により、全国統一王朝(コンバウン朝)が成立。
1824: 第一次英緬戦争
1852: 第二次英緬戦争
1885: 第三次英緬戦争。コンバウン王朝滅亡。
1886: ビルマ全土が英領インドに併合される。
1942: 日本軍とともにアウン・サンをはじめとする30人の志士たちを中核とした「ビルマ独立義勇軍」がビルマに侵攻。日本軍による占領、軍制施行。
1945: アウン・サン将軍を総裁とする反ファシスト人民自由連盟「パサパラ」による一斉抗日武装蜂起開始。 イギリス軍、ラング−ンを奪還。
1947: アウン・サン将軍暗殺。
1948: 共和制連邦国家「ビルマ連邦」として、イギリスから独立。独立後、少数民族や共産勢力等による内乱が続き、国内は混乱。
1962: 国軍のクーデターにより、ネ・ウインを議長とする革命評議会が全権を掌握。一党独裁のビルマ式社会主義路線を発表。経済状態がさらに悪化し、民衆の不満が鬱積。
1988: 8月、民衆の不満が爆発し、大規模な反政府デモが過熱して暴動となるが、国軍は武力で全権を掌握。ソー・マウン大将を議長、キン・ニュン中将を第一書記とする「国家法秩序回復評議会」(SLORC)を設置。 それに対し、反軍制を唱える「国民民主連盟」(NLD)が結成され、アウン・サン・スー・チーが書記長に就任。
1989: 日本、ビルマのSLORC政権を承認。 SLORC、「社会主義経済政策」の放棄を発表。市場経済解放化へ。 SLORC、国名の英語読みをミャンマーに、また首都名ラングーンをヤンゴンに変更。 SLORC、アウン・サン・スー・チーを自宅軟禁に。人権の抑圧として、欧米諸国から非難、経済制裁の口実になる。
1990: 総選挙実施。NLDの圧勝にも関わらず、SLORCは政権の委譲を拒否し、国民会議での憲法草案審議を宣言。NLD関係者を大量逮捕、拘禁。
1992: SLORC、ソー・マウン大将からタンシュエ上級大将に 議長交代。自由主義経済による開発路線を積極的に推進。
1993: 憲法制定のための国民会議開催。
1995: アウン・サン・スー・チー、自宅軟禁解除。 NLDの国民会議ボイコットにより、SLORCとの対立が一段と激化。
1996: 7月、全日空、関西空港=ヤンゴン直行定期便就航。
11月、ミャンマー観光年開幕。97年5月までの半年間。
12月、スポーツ省(大臣Sein Win大佐)新設。
1997: SLORCによる解放経済政策により、経済成長が促進。
7月、ASEANに加盟し、名実ともに東南アジアの一員に。
11月、SLORCが解散。国家平和発展評議会「SPDC」を設立。
1998: 3月、日本政府、ヤンゴン国際空港整備に対し、25億円の円借款供与を表明。
4月、日米両政府、シャン州でのケシ栽培撲滅活動に、合計380万ドルの援助を表明。
7月、スーチー、軍政の主催する「殉難者の日」(父アウンサン将軍の命日)式典に出席。
9月、日本大使館、11万4,000ドルの草の根無償援助契約に調印。
11月、大幅な内閣改造を実施。
12月、国際仏教大学、開校。
1999: 4月、NLD所属当選議員の辞任及び脱退が各地に拡大。
8月、1998年度の来訪旅行者数は10%増の約30万人となる。ASEAN観光局会議をミャンマーが主催。観光客の域内誘致で協力を強化へ。
9月、「日本ミャンマー友好協会」のカウンターパートである、ミャンマー初の本格的NGO「ミャンマー日本友好協会」設立が内務省より許可される。
10月、「強健なビルマ学生戦士」と名乗る武装グループ、タイのミャンマー大使館を占拠。政治犯の釈放、スーチーNLD書記長との対話、国会の開催を要求。政府は要求拒否。
12月、30人の志士の一人であるボーアウンを中心とする退役軍人グループが、軍部、野党、少数民族代表との三者協議を呼びかけ。国防省医務局次長のアウン・ナインが新駐日大使に正式着任。
2000: 1月、政府はインターネット利用に関する規則を発表。
3月、シャン州の麻薬代替作物プロジェクトによって栽培されたそば粉、日本に輸出、収穫量は40トン。この内今回の輸出は18トン。
4月、国軍兵士を含む公務員給与を最大5.5倍引き上げ。政府、インフレ対策としてヤンゴン市内4ヵ所に免税市場を設置。
日本、津守滋特命全権大使を任命。
7月、全大学の授業再開。
9月、新マンダレー空港完成。
10月、軍政とアウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)書記長との対話再開。
11月、「高速道路法」公布。
12月、「ミャンマー日本友好協会」創立総会開催。
「日緬・緬日友好協会合同総会」開催。
2001: 1月、タイの静止衛星を使った遠隔教育を全ての管区、州で開始。
2月、国営ミャンマー・シップヤーズは、乾ドックを起工。12、000トンクラスの船舶を修理。
3月、ミャンマー軍政ナンバー4のティン・ウー国家平和発展評議会(SPDC)第二書記等が搭乗していたヘリコプターの墜落事故で死亡。
4月、ミャンマー政府、国連人権報告官の調査を受入れへ。政府は、国内ニュース、番組を英語で放送する衛星デジタルテレビ放送を開始。
日本政府は17億7,700万円の債務を棒引きする、対ミャンマー債務救済措置を実施。
麻薬栽培を撲滅し、代替作物の栽培を奨励する7地区開発プロジェクト実行委員会の第5回会合がシャン州チャイントンで開催。席上、日本政府草の根支援計画により、病床数25の病院がモンパウに建設される事が発表。
6月、ミャンマー政府、これまでに押収した麻薬の焼却式を開催。焼却処分の麻薬は末端価格で推定9億2、000万ドル。エーヤワディ管区のヒンタダ・タンシップの村に籾殻発電所を開所。1、000世帯を電化。
ミャンマー中央部を襲った豪雨で、サガイン管区を中心に近郊に多くの被害が発生。メコン川で中国、ミャンマー、ラオス、タイの4ヶ国による自由通航開始。
1988年の市場開放から、6月末までの累計外国投資額は73億9,000万ドルに達した。
国別投資ではシンガポールが15億ドル(20.3%)で首位。2位以下は英国、タイの順。
7月、ミャンマー商業省は外貨流出の抑制で、輸入規制を厳格化。
各省庁、ヤンゴン市、国民の寄附によりヤンゴンに麻薬博物館が開設。
麻薬代替作物として、シャン州コーカン地区で栽培されたソバの内54トンが第2回目の対日輸出となった。
8月、政府はミャンマーの実情をミャンマーの視点で訴える事を狙った海外向け、英語のテレビ番組を開始。衛星放送受像機の所有に登録を義務付け。
9月、ミャンマー政府、ILO(国際労働機関)の強制労働実情調査団を受け入れ。
情報技術(IT)セクターの人材開発を目指した日本・ミャンマー相互認証2ヵ年計画に基づき、日本の経済産業省が作成したコンピューター科学訓練コースがヤンゴンで開講。各コースの期間は約3ヶ月。授業料無料。
ミャンマー軍政の大衆レベルの支持組織である連邦連帯発展協会(USDA)が年次総会を開催。
10月、国営ミャンマー鉄道は、50年前に建造のSLを復活し、観光客誘致に役立てる。
高校に英才教育システムを導入。学術分野におけるエリートの養成が目的。
仏教徒とイスラム教徒が国内数カ所で衝突。軍政は夜間外出禁止令を敷いた。米国で発生した同時テロ及び米軍によるアフガン攻撃がきっかけか?
ピネイロ国連人権調査官は、ミャンマーでの調査を3日早めて帰国。ミャンマー当局から全面的協力を得た事に言及。
11月、ミャンマー国際航空は、対米同時テロ攻撃を原因とする航空需要の減退を見込み、便数の削減を行うと共に、保険会社の保険料値上げに伴う航空料金値上げに踏み切った。
ヤンゴン市ライン・タウンシップに建設中のミャンマー情報通信技術団地内に、日本支援によるコンピューター技術研究センターのeラーニング・センターが開設。ヤンゴン国際空港に日本人旅行者用ヘルプデスクを日本・ミャンマーサポーティング・サービシズ社が設置。利用は無料。ミャンマーは東南アジア諸国連合(ASEAN)・メコン川流域開発協力フォーラムで、シンガポールと中国の昆明を結ぶアジア縦断鉄道計画の作業グループ議長国に選出された。
米国の国務省東アジア・太平洋局のミャンマー担当者、ジュディス・ストロッジ氏が、アウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)書記長を自宅に訪問した。今年これが3回目。


ミャンマーの概要

友好協会の沿革 友好協会の事業内容


TOP PAGE